何かあるごとに開く本があります。「思いがけず利他」、政治学者の中島岳志さんが三年ほど前に出された本で、初めて読んで以降、何かあると私はこの本を開くようになりました。
ずっと、自分には何か出来ることがあるのではないかと思っていた時期があります。
時期というよりはもうずっと長い間そう思っていました。けれど、そういうことではなかったのかもしれない。この本に出会って、そういう仮説が私の中に立ちあがりました。それは、自分が無力であるとかそういうこととは、少し違っている感じがしています。
そう思うようになったのは、ヒンディー語を用いた与格構造についての章。自分の意志でどうにもならないことに関しては、「私に〇〇がやってきてとどまっている。 」という表現をするというヒンディー語。例えば日本語で言うところの「私は風邪をひきました。」は、ヒンディー語では「私に風邪がやってきて、とどまっている。」と表現する。そうしようと思っていなかったのに、その状態になってしまったことに対してこの与格構造が使われるそうです。嬉しい時、 「私に嬉しさがやってきてとどまっている。 」と言う。他には、誰かに対して愛おしい感情を持った時も、「私はあなたを愛している。 」ではなく、 「私にあなたへの愛がやってきてとどまっている。」と言う(歌の歌詞などに出てくる「愛している」という表現がどうも苦手なのですが、与格構造で表現される「愛」は苦手ではありまん)。要するに、他者に対して抱くどんな感情も、自分でコントロールできるものではないということです。不可抗力によって私たちに色んなものがとどまっている。与格構造で考えれば、他者のことを見た目や条件、性別や属性で判断することに違和感があるのにも納得がいきます 。
この件を読んで、うすうす気づいていたけれど、自分で決められることなんて、ほとんどないのだと思いました。私は、ただの器であって、その余白に色々なものが不意にやってきてとどまっている。不意なので、自分でどうこうすることはできない。そう思えてからは、随分と視座が開けて、どうしようもないことに対してもあまり動じなくなりました。自分がただの容れ物であって、何かを受けとめたり介したりする役割だと思えば、色んなことがラクになったし、不意のうれしい出来事も増えた気がします。
それでも日々暮らしていると、頭でっかちになります。まだまだ鍛練が必要そうなので、そろそろまたこの「思いがけず利他」を読み直そうと思います。
夏から Homes でたまに働いています 。いつも向かいの珈琲屋から見ていた Dhal に関わることが出来たことは、私の視座を広げてくれたことのひとつです 。今年から仕事と暮らしの境目がないような、一見不安定な生活をはじめたのですが、心は今まででいちばん安定しています。凪です。その理由の多くが周りに居てくれる人のおかげだと思います。去年までの安定した収入が入って来る働き方を手放すことは、すごく不安だったのですが、何とかなっています。環境を変えて、ほんとうによかった。去年の自分に会いに行って、「それで大丈夫だよ」と伝えてあげたいです。
私と関わってくださっている方々に。ありがとうございます 。来年もどうぞよろしくお願いします。
今読み返している本
・愛するということ/エーリッヒ・フロム 今年の初めに読んだ本を再読中。
最近読み終えた本
・聞くこと、話すこと。/尹雄大
・それはただの偶然/植本一子
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